これまでに聴いた「ねずみ」を振り返ってみると、登場する鼠屋の倅(以下、卯之吉)の演じ方に、落語家によって違いがあると感じ、その点について、分析してみた。
卯之吉の演じ方、3類型
冒頭、宿外れで卯之吉が左甚五郎に鼠屋までの道程を案内する場面に着目すると、少なくとも3つに分類できると考えている。
- 虎屋が仙台一の旅籠であることを強調し、恥じるように鼠屋が小さいことを伝える。
- 虎屋が仙台一の旅籠であることにさらりと触れ、無邪気に鼠屋が小さいことを伝える。
- 虎屋が仙台一の旅籠であることを苦々しく伝え、無邪気に鼠屋が小さいことを伝える。
類型1については、当研究会は批判的な意見を持っているので、落語家の例を挙げるのを控えたい。
類型2、類型3については、良し悪しではなく、好みの問題になると考えているので、例を挙げておきたい。以前に書いたものと同じになってしまうが、2は春風亭小柳枝 *1 、3は柳家さん喬 *2 を挙げたい。
類型1について
卯之吉は虐待の過去を忘れたのか
卯之吉は虎屋の主人夫婦(元番頭と女中頭)に虐待をされていたはずで、そのことをすっかり忘れて、まるで仙台の自慢であるかのように話すのは、かなり不自然であるように思われる。
卯之吉の健気さ
また、卯之吉は生駒屋の世話になっているだけの生活を嘆き、自ら宿の客引きをすることを父親に申し出たほどの健気な子どもだ。貧しいながらも自ら身銭を稼いでいることに誇りを持っているとしてもおかしくはなく、少なくとも鼠屋が小さいことを恥じているとは考えにくい。
類型2について
春風亭小柳枝の口演では、虎屋が仙台一であることをことさら強調してはいない。この場合、単に目印として虎屋を描写しているだけのように感じられ、類型1のような違和感は生じない。
また、当然、鼠屋の描写についても、こちらの方が自然な描写だと言えるだろう。
類型3について
最後に、類型3について。これについては、映像の資料が手元になく、CD音源のみなので、表情までは分からないが、柳家さん喬は、明らかにその前後とはトーンを変えて演じている。
鼠屋については、類型2と同様だ。
類型2と類型3の虎屋の描写の比較
類型2のメリット、デメリット
類型2の場合、卯之吉が体中のあちこちに生傷をつけられるほどだった虐待について、忘れてしまったかのようにも受け取れることがデメリットであるが、子どもらしい無邪気さを表現できるというメリットがあると思われる。
また、この時点では虎屋との関係が不明であるため、後に語られる虎屋との因縁を、驚きをもって聴くことになる。これはメリットであると同時に、伏線を張る機会を逃すというデメリットでもあるため、好みが分かれるだろう。
類型3のメリット、デメリット
こちらは、類型2の裏返しで、子どもらしい無邪気さが損なわれるが、その後に父親から語られる虐待の経験との整合性が取られていると言える。
また、虎屋との間に何かがあったことを知らせる伏線になるのだが、これをメリットと取るか、デメリットと取るかは、好みの分かれるところだろう。
当研究会が推すのは
完全に好みの問題であることを断ったうえで、当研究会が推すのはどちらかを表明すると、それは類型3である。整合性を重視したいからだ。
だからと言って、類型2が嫌いなわけではなく、録画してある「日本の話芸『ねずみ』春風亭小柳枝」は何度も繰り返し観ていることを申し添えておきたい。