忌み言葉というものがある。結婚式で「終わり」 を「お開き」と言い換えたりする類の言葉だ。「寝床」を聴き比べているうちに、少し思うところがあったので、書いてみようと思う。
ちなみに、今回の記事は、これまでの落語に関する記事と違って、少しですが重い話題が含まれていますので、いつものお気楽さを求めている方は、読まない方が良いかもしれません。
【この記事の目次】
「寝床」の聴き比べをしながら落語における忌み言葉について考えてみた
落語界は、縁起担ぎで溢れている。寄席で用いる文字を「空席が少ないことを願って、なるべく太い線で書く」なんていうのはよく知られていると思うが、他にも太鼓の叩き方や、座布団の向きなど、部外者の我々からすると、「そんなことまで?」と思うようなことまで、縁起を担いでいるらしい。*1 *2
それを客にまで押しつけてきたら、窮屈で息苦しいものになってしまうが、客の方は最低限のマナーさえ守っていれば、特に堅苦しい決まりなどはない(・・・と思う)。寄席によっては飲食も認められていたりするので、かなり気楽に観に行ける大衆芸能だと考えてよい(・・・ですよね?)。
ならば・・・と、演じる側も伝統に縛られずにお気楽にやるようになってしまっては、きっと落語の魅力は大きく損なわれてしまうだろう。身勝手かも知れないが、落語家には伝統を受け継いでもらいたい。
連続性の象徴として
その理由の1つは、伝統芸能が持つ連続性だ。
あまり熱心に社会の授業を受けていなかった筆者にとって、以前は江戸と明治には明確な違いがあり、はっきりくっきり分けられるもののような印象だったのだが、古典落語を聴いていると、その境目は曖昧なのではないかと思うようになった。
杉浦さん、怒らないでね
落語を聴いて江戸を知った気になってはいけない・・・と、杉浦日向子さんに怒られそうだが *3 、明治期に成立した噺で、例えば、通貨単位が円なのに、内容が杉浦日向子さんが書いている江戸の様子そのままだったりすることなどから、江戸から明治にかけての庶民の暮らしは連続的に変化した・・・と、推測することぐらいは許してくれるのではないだろうか。
そもそも、政体が変わったからといって、庶民の暮らしもそれに連動してがらりと変わる、なんていうのが不自然で、社会制度やインフラが整備されていくのに伴って、少しずつ変化していったと考えるのが自然ではないかと思う。
戦前と戦後の隔たりを越えて
しかし、その連続性が途切れた、あるいは、どうしても途切れてしまったように感じられてしまうのが、「戦前」と「戦後」ではないだろうか。アメリカ由来の価値観が広範囲に渡って短期間の内に注入され、その変化の度合いは極めて大きかったのではないか。戦前の暮らしを経験しているわけではないので、ただの思い込みかもしれないが、戦後生まれがそう思ってしまっても仕方がないとは言えるだろう。
そのような状況にあって、江戸からの連続性を手軽に感じさせてくれるのが落語の魅力のひとつだと思っている。科学的にはまったく意味のない「縁起担ぎ」を連綿と続けてきていること自体が、落語の価値を高めていると思う。
たとえ新作の噺だったとしても、伝統的なスタイルに則って語られれば、江戸から続いた伝統の先端にあるものとして感じられるはずだ。
だから、落語家の皆さんには、出来る限り伝統を守ってもらいたいと思うのだが・・・
「寝床」にその表現は必要か?
これまで述べてきたように、縁起の悪い言葉を出来る限り避けるのが落語の伝統であったと思うのだが、どうも、その辺りが緩くなってしまっているように感じることがある。
例えば、怪談噺で客を怖がらせるのは、最大限のサービスだと思うのだが、気楽な気持ちで聴きたい「寝床」のような噺で、不吉な表現を用いる落語家がいるのはなぜなんだろう。
例えば・・・
例えば、ホラー映画のタイトルや、その主人公を演じた俳優の名を持ち出して「〜のよう」と表現するのは、それが必要不可欠な要素だと考えてのことなのだろうか。*4
「死」や「病状」をそんなに克明に演じる必要があるのだろうか。
旦那の義太夫への野次として、「死ね」の代わりに使える表現はないのだろうか。
あるいは、「『おっ母さん』の看病はいいのか」と問う旦那に対して「死にました」と答える以外の表現方法はないのだろうか。
落語である必要はあるのか?
ホラー映画やスプラッター映画を求めている人がいる以上、それを提供する人がいても構わないのだが、それを落語でやる必要はあるのだろうか。
伝統に縛られることを嫌うのであれば、他のメディアを用いれば良いのではないだろうか。例えば、落語家ではなく YouTuber をやれば、極めて自由度が高い表現が出来ると思う。
柳家さん喬の言葉
柳家さん喬は、ある噺の中で残酷な場面を克明に演じることについて、「それが噺の中で、後々、伏線になるものならいいですけど、あの噺の場合は後につながるものでもないんです。」*5 と述べており、過度にネガティブな描写を克明に演じることには否定的な見解を述べている。
辛いことを一時でも忘れたい人のために
落語を聴いている人は、何の悩みもない人ばかりとは限らない。「落語を聴いている間くらいは、辛いことを忘れたい」と思って聴いている人もいるはずだ。
落語にはそのような人々を癒す力があり、落語家の皆さんには、そういう誇りを持って高座に上がっていただきたい。
ストーリー上、不可欠な場合は仕方がないが、せっかく忘れかけている不幸をわざわざ引っ張り出すような表現は、可能な限り避けてもらいたいと願うのは、単なる我がままに過ぎないのだろうか。
*1:太鼓、文字、演目など寄席の縁起担ぎを解説。│柳家三三「きょうも落語日和」 | アートとカルチャー | クロワッサン オンライン:外部リンク
*2:高座の座布団に 込められた願いとは?│柳家三三「きょうも落語日和」 | アートとカルチャー | クロワッサン オンライン:外部リンク
*4:本題から逸れるが、「〜のよう」というような表現を安易に使うことにも違和感がある。例えば、「妾馬」で「八五郎」を「寅さん」のように演じるのは構わないし、聴き手がそう感じることもよくあることだが、「寅さんのように」というような言葉を噺の中でそのまま発してしまっては、興が醒めてしまうのではないだろうか。