「この後、衝撃の展開が!」という面白さを否定するつもりは全くないのだけど、それだけでは繰り返し鑑賞したくなるような名作にはならないと思う。
先の展開が予想通りだとしても、そこに至る過程を楽しめるものでなければ、簡単に消費されるものにしかならないだろう。
映画、ドラマ、小説など、どんなメディアでもそうだと思うが、落語は取り分けそうした傾向が強い芸能だと思う。
その典型の1つとして、『天狗裁き』を挙げたい。『天狗裁き』は先の展開が予想通りでも、というより、「予想できるからこそ、その面白さが倍増する」噺だと思う。もちろん、上手い人が演じれば、という条件付きだが。
というわけで、柳家さん喬の口演を例に、「繰り返し」がもたらす面白さを考えてみようと思う。*1
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『天狗裁き』の「繰り返し」がもたらす面白さ
『天狗裁き』はほとんど同じ展開の「繰り返し」であるため、初めて聴いた人でも、かなり早い段階から次の展開が予想できるようになるはずだ。*2
諸刃の剣の「繰り返し」
その「繰り返し」は諸刃の剣で、それによって面白くなるか、ダレてしまうかは、落語家の腕にかかっている。
例えば、柳家権太楼は『くしゃみ講釈』について、次のように述べている。*3
「くしゃみ講釈」という噺の難しさは、講談の場面ではなく、むしろ前半の江戸っ子二人のやり取りだと思うんですよ。ここを下手なヤツがやると、「何買うん?」「胡椒の粉だよ」「どこで買うの?」「だからあ、角の乾物屋だ!」という繰り返しの会話がダレちゃって、お客さんが退屈しちゃうのよ。
柳家さん喬の『天狗裁き』
この噺は、夢の内容を聞きたがる妻と、「夢など見ていない」と言い張る夫、八五郎との間で諍いになり、その仲裁に入った隣人も夢の内容を聞きたがるが、八五郎が「夢など見ていない」と言い張るため・・・というように、
仲裁に入る→夢の内容を聞きたがる→「夢など見ていない」→諍いになる
という展開を繰り返す。
新しく登場する人物は、聴き手の予想通りに夢の内容を聞きたがるのだが、さん喬はその予想を確信に変え、さらに期待さえ抱かせるように演じている。
大家の「上がらせてもらうかな」
最初に「仲裁に入る」のは隣人だが、上記のサイクルの「繰り返し」が始まるのが、次に登場する大家からだ。
「夢の内容を聞きたがる」のは隣人の段階から「繰り返し」が始まるのだが、大家の登場によって、その前の「仲裁に入る」がサイクルの開始段階となるのだ。
ただし、大家が登場しただけで「繰り返し」であると気付くのは、既に噺を知っている人か、よほど勘の良い人に限られるだろう。せいぜい「もしかして・・・」という程度に留まっているはずだ。
八五郎を誉める大家
大家は、隣人を退けた後、「よく喋らなかったなぁ・・・」などと八五郎を誉め始めるのだが、その辺りから観客は「繰り返し」であることを予期し始める。
「上がらせてもらうかな・・・」
そして、確信に変わっていくのが「ま、ちょっと・・・上がらせてもらうかな・・・」という台詞だ。さん喬はこの台詞により、すぐにでも夢の内容を聞きたいという気持ちを抑えながら話している大家の心情を巧みに描き出している。
擬似的な親子関係の強調
さらに、大家と店子が擬似的な親子関係にあることを強調することで確信の度合いが強まり、「言うぞ、言うぞ・・・」と客が待ち構えるようになったところで、「どんな夢を・・・」という台詞が放たれ、面白さがピークに達する。
留意したいところ
ここで、留意しておきたいのは、「どんな夢を見・・・」まで聞いたところで観客に笑いが起き、その後に続くはずの言葉が途切れていることだ。
奉行の猫撫で声
次に登場するのは奉行だ。奉行は「八五郎に罪はない」と断じて大家を退けた後、八五郎に話しかける。
その猫撫で声で発せられる「はちごろう」という台詞だけで、観客はその後の展開を悟ることができる。
自画自賛と礼賛
そして、奉行は自分の裁きを自画自賛し、口が堅いと八五郎を誉める。それによって、大家の場合と同様に観客の期待感を十分に高めた上で、放たれるのが次の台詞だ。
「家人の者が聞きたがり、隣家の者が聞きたがり、家主が聞きたがったその夢の話、この奉行に・・・」
「繰り返し」により可能になる省略
興味深いのは、さん喬は「この奉行に・・・」までで止めており、その後に続く台詞を省略している点だ。その前の部分は、前段階の八五郎を誉める場面で一度発せられており、新たに継ぎ足されたのは「この奉行に・・・」だけである。
つまり、さん喬は「繰り返し」を巧みに利用することで、「この奉行に・・・」のひと言だけで観客が笑う状況を作り出したと言えるのではないだろうか。
総決算となる天狗の「・・・が」
最後に登場するのが天狗だ。
「仲裁に入る」から始まるサイクルが既に2度繰り返されているため、観客は当然、もう1サイクル来ることを予期するだろう。
そして、その期待通りになるのが次の台詞だ。
「儂は天狗じゃ。天狗じゃによって、その様な話は聞きとうない・・・が」
ここで、観客に笑いが起きるのは「・・・が」を聞いた瞬間だ。
「繰り返し」を効果的に使ってきたことで、ひと言どころか、わずか1音節だけで観客が思わず笑ってしまう状況を作り出したと言っても良いのではないだろうか。
振幅が大きくなるように
このように、「繰り返し」を効果的に使うことで、笑いの波が振幅を大きくしながら繰り返し訪れるような噺が出来上がるのではないだろうか。
逆に、それが出来ない場合は、くすぐりで誤魔化したり、極端に感情的な演じ方になってしまったりするのではないだろうか。
『天狗裁き』が持つ本来の面白さを味わうには、柳家さん喬をお薦めする。*4