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『五人廻し』の喜瀬川を落とすには

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「遊女が二人以上の客に順次に接すること」を「廻し」と言うらしい。*1

一晩に5人の「廻し」をとる『五人廻し』では、4人もの客が待ちぼうけを食わされることになるわけだが、彼らの言動を反面教師とすれば、吉原で粋に遊ぶためのヒントになるはずだ。

今は存在しない吉原遊郭だが、昭和32年以前にタイムスリップする御仁がいないとも限らないので、そういう方に役立ててもらうために、分析しておこうと思う。

【この記事の目次】

『五人廻し』の喜瀬川を落とすには

『五人廻し』は演者によって演出に違いがあると思われる。

ここでは、柳家さん喬の口演に基づいて分析することにする。*2

1人目(職人風の客)

1人目は職人風の客だ。

待ちぼうけを食わされてイライラしているところに、若い衆の言葉がきっかけとなり、激しく立腹して威勢良く啖呵を切る。

長屋に住んでいそうな典型的な江戸っ子と思われるが、この客が待ちぼうけを食わされる理由を、隣の部屋で待っている客が明らかにしてくれる。

2人目(半可通の客)

2人目の客は「〜でげしょ」などと特徴のある話し方をする客だ。

1人目の客の評価

この客は、隣の部屋から逃げ出した若い衆を自分の部屋へ呼び込み、職人風の客を評して「かようなところで大声を発するなぞは野暮の極み」と述べる。

また、若い衆から隣の客が「玉代を返せ」と言ったことを聞き、「『玉代を返せ』なぞとは誠に野暮」とも言う。

つまり、1人目の客は野暮な客であるというわけだ。

2人目の客の人物像

では、2人目の客はなぜ待ちぼうけを食わされているのか。

その理由の1つとして推測できるのは、彼の人物像である。

「〜でげしょ」という語尾を調べてみると、「江戸末期から明治にかけて、主として芸人や職人、通人ぶった者の間に用いられた」とある。*3

吉田兼好の言葉を引用するなど、本人は通人のつもりなのだろうが、他人から見ると「ぶった」者であると言えそうだ。

また、若い衆をネチネチといたぶるその様子から、あまり良い性格とは言えないだろうと思われる。

玉代返して!

決定的なのは、自ら「野暮」と評しておきながら、1人目の客と同じことを言ってしまうことだ。

即ち「玉代返して!」である。

自分が野暮だという自覚がないのか、あるいは野暮だと知りながら言わずにはいられないのかは分からないが、いずれにしろ野暮であることには変わりない。

3人目(田舎者)

次の客は、日本橋の在住であると称しているが、本当かどうか疑わしい。その訛りや肥桶を担ぐことを生業としていると思われる台詞から、「田舎者」であると考えられる。

しかし、「田舎者ゆえに振られた」と考えるのは早計かも知れない。

他の客と何か共通点は無いだろうか。

共通点

気になるのは「男を振るなら(自分のような江戸っ子ではなく)田舎者を振れ」という台詞だ。

自分を田舎者だと思っていないのか、あるいは田舎者であることを隠し通せると思っているのか、いずれにしろ、この客は自身が田舎者丸出しであるという自覚が無いのだろうと推測できる。

この点において、通人ぶった2人目の客と共通点があると言えるのではないだろうか。

ついでに言えば、1人目の客もその啖呵の中で自身が吉原に精通していることを強く主張していながら、その行動は野暮である。

つまり、「自分を客観的に評価できないこと」が振られた原因である可能性が浮かび上がる。

そして、はっきりした共通点がもう1つ。即ち「玉代けぇしてもらうべ」という台詞だ。この男もやはり玉代への執着は捨てられないようだ。

4人目(横柄な役人)

4人目の客は、若い衆を「小使い」と呼んで部屋に招き入れる。その硬い口調、「うおっち」を所有して時間に厳しそうであるところ、漢文に精通していそうなところ、月給を貰っているという点などから、明治政府のお役人かそれに類する職業ではないかと推測される。

この客の問題は横柄な態度だ。

若い衆に向かって、「君が両親じゃからとて、かような所で職を得んがために教育をしたのではないぞ」などと言い、遊郭とそこで働く者をいかにも見下している。

自身が遊郭に来ていながら、そのことを忘れているようだ。この点において、前述の共通点を有していると言っても良さそうだ。

そして、やはり他の男たちと同じことを言ってしまう。即ち「玉代を返してもらいたい」だ。

5人目(田舎大尽)

そして5人目。

訛りが強く、田舎者であると思われるが、非常に気前が良いところから、3人目とは違って金持ちであるようだ。「田舎大尽」と言っていいだろう。

結局は金がものをいうのか・・・と思いきや、なんと最後にはお大尽まで振られてしまうのだ。

その原因はどこにあったのだろう。

4人との共通点

他の4人と共通する点はないだろうか。それを探ってみよう。

田舎大尽が喜瀬川を側に侍らせることができたのは、明らかに金の力だ。

しかしながら、本人は自分のことを「色男(訛りのせいで「エロ男」と聞こえるが)」であると思い込んでいる。

また、他の客たちのことを「どうせ田舎もんだべ」と言っていることから、田舎者であるという自覚も無さそうだ。

つまり、「自分を客観的に評価できないこと」がこの5人の共通点であると言えそうだ。

それこそが「野暮」であり、「野暮な言動」につながっているものと考えられないだろうか。

間夫になるには

さて、遊女の情夫のことを「間夫」というらしい。*4

その間夫になるために、5人の客の共通点から「やってはいけないこと」の1つを明らかにした。

ということは、その逆のことをすれば、間夫になる可能性が生まれると言えるだろう。

つまり、「自分を客観的に評価し、偽らずに自分自身をぶつけること」、端的に言えば「正直であること」が間夫になる条件なのではないだろうか。

吉原という虚飾に満ちた色里において、「正直」を貫くのは極めて難しいことに違いない。

しかし、『紺屋高尾』や『幾代餅』のような例もある。間夫になれる可能性が無いとは言えないのだ。

喜瀬川に間夫はいるのか

ところで、さん喬は客を5人登場させているが、「千字寄席」によれば、「普通、登場する客は四人」であるという。*5

この場合、例えば『掛取万歳』で登場人物を省略するのとは意味が違うように思う。

5人目も振られてしまえば、少なくともこの晩、間夫(遊女の情人)は来ていないことになる。間夫は存在しないのかも知れない。

しかし、4人目が振られたのならば、5人目は間夫である可能性が高い。

つまり、「真に粋な男であれば、間夫になれるかも知れない」という期待が高まるのだ。

タイムスリップして吉原で遊んでみたいという御仁にとっては、4人目を振って欲しいところだろう。

一方で、5人目まで振ってしまう喜瀬川は、かなり手強いと言えるだろう。だが、もしかしたら、「だからこそ落としてみたい」という強者がいらっしゃるかも知れない。その自信が思い込みでなければ良いのだが。『五人廻し』が『六人廻し』にならぬよう、ご検討をお祈り申し上げたい。

最後に

最後に川柳を1つ引用しておこう。

「人は客おのれは間夫と思う客」

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