「明烏」を聴くと甘納豆を食べたくなる・・・って良く聞くけど、妻も御多分にもれず、食べたくなる。*1
以前、NHKの「落語ディーパー!」で甘納豆不要論が語られていたのだけど、やっぱりあった方がいいんじゃないか?というのが当研究会の考え。
それは、甘納豆が好きだから・・・という理由ではなく、名人が受け継いできた噺なんだから、何かしらの意味があるんじゃないか?という考えから。で、その意味を考えてみた。
柳家さん喬のCD「名演集8」の「百川」についての解説で、瀧口雅仁が「酒を飲んでいる前でキントンを食べているような仲間はドジな奴であり」と書いている。つまり、甘味がそぐわない(と江戸っ子が考える)場面で甘いものを食べているという描写は、「ドジ」を表現しているということであろう。
今でこそ、男性がスイーツ好きをカミングアウトしやすくなっているけど、甘いものが好きなんて、昔の男性は気軽に言えなかったんじゃないだろうか。現代の感覚で考えると何とも思わないことでも、噺が創られた当時のことを考えれば、別な意味が見えてくるということがよくある。甘納豆もそうかもしれない。
初心な若旦那に遊びっていうものを教えてやろうなんていう男が、「振られたやつが起こし番」になっているだけでも十分に情けないんだけど、甘納豆が加わることで、さらにそれが強調されているんじゃないだろうか。
だからと言って、絶対に削ってはいけないなんていうことはないのだけど、その理由が大事だと思う。例えば、時間の制約でどこか割愛しなければならないのなら、間違いなくその候補の1つだろう。
現代の感覚では理解されにくいから、という理由も理解はできるけど、「万金丹」のサゲを改変した柳家さん喬に五代目小さんが「わからなくたっていいんだよ。いつかはわかるさ」と言ったように *2 、たとえ理解されなくてもそのままやるということも必要なんじゃないだろうか。(さん喬さんは言われた通りにしていないそうだけど(笑))
でも、「誰それの甘納豆は良かったなんて言ううるせぇ客がいるから」という理由はちょっと違うんじゃないかと思う。もし、そういう理由で削っているのなら、なんで客と戦っているんだろうっていう疑問を抱かざるを得ない。落語は噺家と客が一体となって創り上げるものであって欲しいと思う。