『超入門!落語 THE MOVIE』*1 という番組で柳家喬太郎の『井戸の茶碗』を観て以来、ずっと引っかかってきたことがあった。
それについて記事を書こうと下調べしていたら、同じようなことを考えた方がおられたようで、既に記事にされていた。
屑屋の清兵衛はどうして50両、150両のカネをネコババしないのか?
簡単にまとめさせてもらうと、「喬太郎の(自分の欲望に正直な)清兵衛の言動は、ストーリーのリアリティという点で疑問を生じさせる」というようなことかと思う。(詳しくは上記リンク先を参照のこと)
ここで我々の考えをそのまま書いても二番煎じにしかならないので、この記事では「なぜ喬太郎はそのような演出をしているのか」を推測してみることにした。
※ 『井戸の茶碗』のあらすじを確認したい方は ここをクリック してください。
【この記事の目次】
柳家喬太郎の『井戸の茶碗』における(自分の欲望に正直な)清兵衛について(前)
問題としているのは、仏像の中から五十両が出て来たことを知った屑屋の清兵衛が若侍に言う「あたしがお武家様だったら、もらうなぁ・・・」という台詞だ。
喬太郎の師匠である柳家さん喬の『井戸の茶碗』は正統派と言ってもよく、このような台詞は入っていない。*2
著書『落語こてんコテン』*3 の中で喬太郎は、師匠のさん喬からこの噺を習ったことを明かした上で、「入門前、僕はうちの師匠の『井戸の茶碗』が大好きでしてね」と述べている。
その師匠直伝の『井戸の茶碗』を特段の理由も無しに改変するだろうか。
また、同著書の中で喬太郎は「善人ばかりが登場する、後味の良い噺・・・・・・それが、この話が多く演じられる理由かもしれません」と書いており、このことからも、清兵衛が「善人ではない」と受け取られかねない演出をするのは、やはり何らかの意図があると考えて良いのではないだろうか。*4
現代的な感覚
前の記事 *5 でも触れたのだが、師匠のさん喬は、喬太郎の「現代的な感覚」が彼の欠点であり長所でもあると述べている。*6
問題の台詞が、合理的な話の展開を求める落語ファンには「引っかかる」ものと感じられる一方で、「面白い」と感じる落語ファンも多数存在するというのは、この台詞が「現代的な感覚」を反映したものであるからなのではないだろうか。
『井戸の茶碗』の正直さ
喬太郎は、枕で「昔と今とではご商売というものが随分と変わってまいりましたが・・・」と語り始める。
これは「現代的な感覚」とは乖離していることを予め宣言するためだというのは深読みしすぎかも知れないが、「不正をして得たわけでもない金をあえて返還しようという程の正直さ」は、現代的とは言えないのではないだろうか。
「現代的な感覚」がもたらす効果
では、「現代的な感覚」を清兵衛に投影することで、どのような効果が得られるのだろうか。ストーリーに齟齬を生じさせる危険を冒してまで取り入れるメリットには、どのようなものがあるのだろうか。
正統派の師匠
喬太郎の師匠であるさん喬の『井戸の茶碗』からは、明らかに現代的な要素は感じられない。もちろん、現代に生きる我々にも親しみやすいように、それとは気付かない工夫がなされているのであろうが、古典を古典のままで愉しませてくれる。
江戸時代の人々の生活を覗き見しているような感覚と表現してもよいだろうか。
現代人が迷い込む感覚か
一方、喬太郎の場合は、清兵衛の表情や発言がいかにも現代的で、まるで現代人が古典の世界に迷い込んでいるかのような錯覚を覚える。
タイムスリップとの類似
ということは、例えば、陸上自衛隊の1個小隊が長尾景虎と共に戦ったり *7 、脳外科医が幕末で近代医療を施したり *8 、男子高校生が信長になってしまったり *9 、女子高校生が足軽になってしまったり *10 ・・・と挙げれば切りが無いタイムスリップものと類似していると言ってもよいのではないだろうか。
タイムスリップのメリット
タイムスリップの利点は何か。それは、通常通り古典を愉しむ場合に必要となる、「それぞれの時代において生じたであろう事象を俯瞰して、そこから受け手が各自解釈を構築する」という手続きを不要とすることなのではないだろうか。
ある時代に迷い込んだ現代人の言動を通して、直截的にその時代を疑似体験させることが、最大のメリットの1つであると言い換えてもいいだろう。
「拡大解釈」と逆のベクトル
柳家小三治は『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』*11 において、「拡大解釈」という考え方を提唱している。
それは、古典から現代にも通底する普遍的なものを抽出することで古典を愉しむことであると解釈しているが、「現代的な感覚」を古典の世界に持ち込むタイムスリップ的な手法は、その逆のベクトルと言ってもいいのではないだろうか。
ウケている現実
人間国宝と逆を向いているからといって、それが悪いというつもりは無い。
さん喬ファンとしては、「習った通り演って欲しいなぁ」という思いが無いわけではないのだが、喬太郎の良さが発揮されるものの1つが、現代的な感覚を持ち込んだ古典なのだろう。
喬太郎をきっかけに落語ファンになる人はかなり多いはずで、それを考えると、喬太郎は落語界に大いに貢献していると言えるだろう。
また、『なぜ柳家さん喬は柳家喬太郎の師匠なのか?』という本が出ているくらいなのだから、喬太郎をきっかけにさん喬を知る人も多いはずだ。
好みの違い
時代考証がしっかりした本格時代劇が好きだからといって、現代人がタイムスリップした時代劇やそのファンを否定することなど出来ない。
どちらが良い悪いという話ではなく、好みの違いと言っていいだろうし、どちらかに拘らず、両方を愉しんでいる人も多いだろう。
落語だって同じように考えてもいいはずだ・・・とは言いながら、習った通りに演っても充分面白くできるんじゃないかぁ、喬太郎師匠なら・・・と思わずにはいられない。
まとめ
- 喬太郎は『井戸の茶碗』に独自のアレンジを加えている。
- そのアレンジとは、古典に「現代的な感覚」を加えることである。
- 「現代的な感覚」を投影された登場人物の言動を通して、観客は古典の世界を直截的に感じることができる。
*1:超入門!落語 THE MOVIE - Wikipedia
*2:
*3:
*4:「講談るうむ」によれば、この噺の元となった『細川茶碗屋敷の由来』では、屑屋が「無欲の善人」ではなく「『欲心』がチラッと覗く」人物として描かれており、喬太郎が講談から影響を受けた可能性は否定できない。しかし、ここで考えたいのは「何のために」改変したかであるので、講談との関連については、深く追求しないでおく。koudanfan.web.fc2.com
*5:
*6: なぜ柳家さん喬は柳家喬太郎の師匠なのか? (文芸書) [ 柳家さん喬 ]
*11: