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『井戸の茶碗』の「支度金」を通して柳家さん喬と喬太郎の違いを考える

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古典落語が描く時代の価値観と現代の価値観との違いが大きい場合、それをどのように解決するかは悩ましい問題なのではないかと思われる。

井戸の茶碗』では、高潔な人物である千代田卜斎が、高木作左衛門から百五十両という大金を受領するに際して、「何の理由もなく受け取るわけにはいかないが、娘を嫁がせるための支度金としてなら・・・」と応じる場面があり、現代的な結婚観とは合わなくなってしまっている。

この問題を通して、柳家さん喬喬太郎の師弟にどのような違いがあるのかを考えてみたい。

※ 『井戸の茶碗』のあらすじを確認したい方は ここをクリック してください。

【この記事の目次】

井戸の茶碗』の「支度金」を通して柳家さん喬喬太郎の違いを考える

まずは、弟子である喬太郎の演じ方から考えてみよう。

喬太郎の場合

柳家さん喬は弟子の喬太郎について『なぜ柳家さん喬柳家喬太郎の師匠なのか?』の中で、「喬太郎は現代語で古典落語が喋れる」と評している 。*1

また、それは単に発音だけのことではなく、落語自体に現代的な印象を残すとも述べている。

「娘を売るんですね」

喬太郎は、仲介役を務める清兵衛に現代的な感覚を投影し、「百五十両で娘を売るんですね」とあえて言わせてしまう。それに対して、「そうではない! 娶ってくださるなら、支度金として頂戴つかまつる!」と千代田卜斎の語気を強め、それを受けた清兵衛に「ですよね。意味が全然違いますよね」と納得させることで、この問題の解決を試みている。

かなり強引な気もするが、それも喬太郎の良さと言えるだろう。

師匠直伝らしいが

喬太郎は、『なぜ柳家さん喬柳家喬太郎の師匠なのか?』において、「あれは比較的早く教えていただきました」と『井戸の茶碗』が「直伝」であることを明かしている。

しかし、さん喬の口演には「娘を売るんですね」に該当する台詞が入っておらず、「売るんですね」云々は喬太郎が付け加えた部分であろうと思われる。

さん喬の場合

では、師匠のさん喬はどのように演じているのか。

実は特別なことはしていない。にも関わらず、人身売買であるかのような悪印象を受けないのはなぜなのだろうか。

意地の張り合いの物語

柳家さん喬13』の「解題」で長井好弘は以下のように評している。*2

近年、侍二人の間に入って迷惑する屑屋の清兵衛にスポットライトを当てる演出が急増しているが、さん喬はもともとの「善意の侍同士の意地の張り合いの物語」をきっちり演じる。

その「意地の張り合い」がきちんと描かれることで、2人の侍の人柄が浮き彫りになり、特に高木の人となりが爽やかに感じられる効果が高い。

若鮎のような高木

前述の「解題」において、「若鮎のような高木をお見せしたい」というさん喬の言葉が紹介されている。

高木が「若鮎」のように感じられるのは、「意地の張り合い」を第三者の視点で聴く我々だけだろうか。

高木の言葉を直接聞いていなくても、いや、もしかしたら清兵衛を通して間接的に聞いているからこそ、千代田にも高木の高潔さは充分に伝わったことだろう。

鏡像としての高木

婚姻の提案を受けた高木は「千代田氏のご息女であれば、間違いはあるまい」と言って、その提案を受け入れる。

「意地の張り合い」の一方の当事者である高木がそう感じたということは、もう一方の当事者である千代田が、高木の人柄について「間違いはあるまい」と考えたであろうことは容易に想像できる。

また、その「意地の張り合い」を間近で見ていたであろう千代田の娘も、父の決定に異を唱えることはないだろうと想像したとしても、無理はないはずだ。

古典の色合い

しかし、これだけでは解決できないはずの問題がある。

現代においては見合い結婚さえ少なく、恋愛結婚が一般的だからだ。それ故、現代の価値観でこの噺を聞いてしまえば、どうしても違和感は拭いきれないだろう。

この問題を解決するには、この噺が現代とは違う価値観であることを観客に理解させる必要があるため、喬太郎は清兵衛と千代田の掛け合いを通して、はっきりと観客にそれを示している。

しかし、さん喬はそのようなことをしない。というより、さん喬の口演を聴いていると、この問題が存在していることさえ忘れてしまう。

それはつまり、さん喬が古典落語を古典の色合いで演じているということなのだと思う。だから、あえて現代ではないことを説明する必要がないのだろう。

芸の継承

Wikipedia によれば、『井戸の茶碗』は5代目古今亭志ん生が名演と言われており、それを受け継いだのが3代目古今亭志ん朝、そして志ん朝から教わったのが5代目春風亭柳朝とされている。*3

さらに、『柳家さん喬13』の「解題」に「柳朝師匠が元気なころに稽古してもらった」とあり、さん喬が『井戸の茶碗』の正統な継承者と言っても差し支えないだろう。

喬太郎は正統な継承者か

では、喬太郎は正統な継承者と言えるだろうか。

『なぜ柳家さん喬柳家喬太郎の師匠なのか?』において、「喬太郎師匠は正当な落語を伝えてくれるという手応えはありますか?(原文ママ)」という問いに対して、さん喬は「いや、彼は変質させていくと思います」と答えている。

今の時代では長所

さん喬は「現代語で古典落語が喋れる」とする喬太郎について、「欠点でもあるんですけど(略)今の時代では長所です」と述べている。*4

喬太郎を「正統な継承者ではない」とする一方で、否定しているわけではないことが分かる。

それぞれの特長

時代劇に親しんできたような世代にとっては、特段江戸時代に詳しくなくても、「江戸時代だったらこんな感じかなぁ・・・」とか「武士の娘の結婚ってこんな感じだろうなぁ・・・」といった漠然とした知識は有しているであろう。

しかし、現代の若者にとっては、そういった知識は全く縁が無くなっているかも知れない。

そのような人たちにとっては、喬太郎の現代感覚がマッチするのではないだろうか。

しかし、もし、正統な江戸落語を愉しみたいのであれば、さん喬が良いのではないだろうか。

こう書くと、さん喬の落語が難しそうに思われるかも知れないが、決してそんなことはないことを申し添えておきたい。

喬太郎をきっかけにして落語に興味を持った人にも、一度は聴いてみてもらいたいと思う。

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