tadashiro’s blog

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落語、北海道、野鳥など。

明烏のおっかさん

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明烏」のおっかさんって一言も喋っていないことに気付いてた?」

ある日、帰宅するなり唐突に夫が放った一言。夫はしばしば唐突な物言いをするので、妻は真意を掴めずに困惑するのが常なんだけど、この言葉は輪をかけて意味不明。(何を言ってるの?)

よくよく聞いてみると、「柳家さん喬は時次郎のおっかさんの台詞を一言も音声化していない」ということらしい。そんなわけないでしょう、と「柳家さん喬11」の「明烏」を聴き直してみると、確かに一言も発していない!まったく気付いていなかった。

冒頭、状況説明的な夫婦の会話のはずなんだけど、実際に音声化されているのは、おとっつぁんの台詞だけ。やがて、時次郎が帰ってきて、3人で話しているはずなのだけど、ここでもおっかさんの声は聞けない。結局、最後までおっかさんの声は聞こえない。

にもかかわらず、勝手におっかさんの姿を思い浮かべていた。まんまとさん喬さんの術中にはまっていたわけだ(むしろ、そうなりたくて聴いているから、それでいいんだけど)。さん喬さん恐るべし。そして、それに気付くシャドーイング恐るべし。*1

思い返してみると「妾馬」でも、大家さんの妻、八五郎のお袋、ご老女、お鶴、みんな台詞がないなぁ。落語は女性の台詞を音声化しないことが多いのだろうか。落語家には今でも女性が少ないくらいだから、男性が演じやすいように作られてきたのかも知れないけど、冗長さを避けるために省略されているのかも、とも思う。

たまに、登場人物の台詞を「はい」や「いいえ」のような小さな一言にいたるまで、全てを声に出して演じる落語家さんを見かけることがある。特に若手に多い気がするんだけど、話者が目まぐるしく変わるとせわしなくて、かなり集中して聴いていないと、誰が話しているのか分からなくなってしまう。

聴いていて心地よい落語は、省略できるものは可能な限り削ぎ落とされているように思う。徹底して無駄を排除して、必要なものだけを残しているのが名人の口演なんじゃないだろうか。

さん喬さんの落語は、話者だけでなく周囲の人を描き出す、というより、状況も含めて周囲の全てを描き出しているように感じられるのだけど、あれほど長い場面で、一言も台詞を言わずにその存在を感じさせ、説明的な台詞にありがちな野暮ったさも感じさせず、自然な会話と感じさせてくれるなんて、やっぱりさん喬さんはすごいなぁ、と再確認。

 

*1:過去記事(内部リンク)

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