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柳家さん喬の『棒鱈』の面白さを探る

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『棒鱈』の筋はとても単純だ。100字程度に要約すると こんな感じ だが、要するに「酔っぱらった町人が侍に絡む」というだけの話だ。

こんな噺がなぜ面白いのだろう。

柳家さん喬の口演に基づいて、考えてみたい。*1

【この記事の目次】

『棒鱈』の面白さを探る

『棒鱈』は、男二人が座敷で酒を飲んでいる場面から始まる。

一方は酒癖が悪く、もう一方がそれをたしなめるという、よくある光景だ。

場面が切り替わると、隣の座敷。侍が酒を飲んでいる。

こちらは、芸者を何人も呼んで、気分良く飲み、下手な歌を唸ったりしている。

これも珍しくはない光景だろう。

この、どこにでもありそうな、珍しくもない光景が複雑さを増すのは、再び男二人の座敷に視点が戻った時からだ。

隣の座敷で侍が浮かれている様子に対して、酔っぱらいが反応し始める。

ここから、一方の座敷がもう一方の座敷に相互に影響し始めるのだ。

多視点を楽しむ

この後の展開を、当研究会では夫と妻で別な楽しみ方をしている。

まずは妻の楽しみ方を紹介したい。

さん喬の上手さ

たった独りで全てを演じる落語の面白さのひとつは、ある台詞によって表現するのが、その話者だけでなく、それを聞いている者や周囲の状況をも同時に描き出すということにあると思う。

それが、上手いと言われる落語家の条件のひとつであろうと思うが、柳家さん喬はそれが抜群に上手い。

さん喬の『棒鱈』

『棒鱈』においても、その上手さは遺憾なく発揮されているのだが、2つの場面が描写され始めると、さらに視点が増え、まるで同時に2つの場面を見せられているかのような錯覚を覚える。

酔っぱらいを演じていながら、同時にそれを聞く相手、隣の座敷の様子までをも浮かび上がらせてくれるのだ。

逆に、侍の座敷の場面では、隣の座敷の声が気になる侍と、それをなだめる芸者衆を演じることで、2つの座敷の様子が同時に浮かび上がる。

映像化するとしたら・・・

もしも、映像化するとすれば、一方の座敷の音声を流しながら、映像はもう一方の座敷を映すとか、あるいは、画面を2分割するか、ワイプと呼ばれる小さい枠でもう一方の様子を映すとか、そういった手法が取られるのではないだろうか。*2

パラレルを楽しむ

一方で、夫は別な楽しみ方をしている。

2つの座敷での会話が、並行して進んでいくようなイメージだ。

一方の座敷を描いている間、もう一方の座敷でも並行して時間が進んでいる。そして、場面が切り替わった時に、その間、描写されていなかったはずの様子も浮かび上がるように感じられるのだ。

妻が頭の中で映像化するのを好むのに対して、夫は映像化を介さずに楽しむことが多いため、このような違いが生じる。

何度も聴きたい『棒鱈』

子どもの頃から落語好きだった当研究会の夫は、最初に聴いた時からさん喬の『棒鱈』を気に入っていたが、落語ファン歴が浅い妻の方は、最初はあまり面白いとは思わず、繰り返し聴く内にお気に入りになっていった。

妻は、1度目よりも、2度目、3度目と聴く内に、頭の中の映像が精細になっていき、2つの座敷の様子が同時に頭に浮かぶようになったところで、お気に入りになったと言う。

こう書くと、夫が上だと言っているように思われるかも知れないが、決してそんなことはない。

漠然と面白いと感じるだけの状態だった夫が、「自分自身の楽しみ方」を考えられるようになったのは、妻に付き合って何度も聴き、議論を重ねたおかげだ。

落語をより愉しむためには、落語ファン歴が違う相手との対話が良いのかも知れない。

だから、本当は色んな人と話した方が良いんだろうけど、うちは2人とも内向的だからなぁ・・・って言いながら、ブログなんか書いちゃってますけどね。

 

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*1:

棒鱈

棒鱈

 

*2:『超入門!落語 THE MOVIE』で見てみたい気もするが、せっかく自分で頭の中に作り上げた映像が壊されてしまわないかという心配もある。というか、『超入門!落語 THE MOVIE』を見ていた時は、常にその心配をしながら見ていたけど。

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