tadashiro’s blog

しろのブログ

落語、北海道、野鳥など。

『なぜ柳家さん喬は柳家喬太郎の師匠なのか?』を読んで

f:id:tadashiro:20190213184639p:plain

f:id:tadashiro:20190213184732p:plain

『なぜ柳家さん喬柳家喬太郎の師匠なのか?』は、さん喬師匠と喬太郎師匠にインタビューしたものをまとめた本です。本文の用語などには、注が付いています。この注がとても充実しているので、注だけ読んでもおもしろいです。

本のタイトルの答えは、シンプルに、喬太郎師がさん喬師のことが好きだから、ということになるのかなぁ。あっ、でも、これだと、「なぜ柳家喬太郎柳家さん喬の弟子なのか」という問いの答えになってしまうのかしら。

喬太郎師が、さん喬師のことが好きで、尊敬しているということは、インタビュー全体から伝わってきます。

例えば、「棒鱈」は聖域だからかけられないと。さん喬師の「棒鱈」は素晴らしい。弟子であれば、やらなくてはならない演目なのに、こわくて手がつけられない。大切にしまっておきたいという気持ち、なんとなくわかります。でも、喬太郎師には「棒鱈」をかけてほしいなぁ。さん喬師の芸を継いでほしいなぁ。

また、飲み会などでのお二人の会話からも喬太郎師がさん喬師のことを好きなことがわかります。

さん喬師、喬太郎師、霞の新治師、入船亭扇遊師の4人で飲んだときに、喬太郎師匠が「師匠、あのとき、こうでしたね。こうでしたね。」さん喬師匠が「ああ、そうだった。そうだった。」喬太郎師が「僕こう思うんですけど」などと言っていたら、話を聞いていた2人が、「俺たちは師匠にこんな口利けない」と驚かれた、と。「えっ、うちは普通ですよ、ねっ師匠」「うん・・・むむむ・・・」。

和気あいあいと飲んでいたからといって、好きということにはならないかもしれませんが、このエピソード好きなんです。喬太郎師のきゃっきゃと、はしゃいだ感じが出ていて。

周囲から望まれることと自分が望むことが異なる、ということは、芸術家などによくあることだと思います。

いつの間にか古典落語はさん喬、人情話はさん喬、女をやるのはさん喬という評価が定まってきた。「そんなことはない。俺は落とし噺が大好きなんだから」って思うけど、もうそれはぬぐい去れないものになってしまっているんです。(さん喬師P56)

最近は慣れたのですが、お好きなようにやってくださいと言われることがあるんですね。ご存分にとか。なのでその日は普通に、特に崩すわけもなく、自分のやりたい古典を普通にやったりすると、「もっとはじけていただいても(よかった)」とか言われるんですね。あちらの“好きなように”と僕の“好きなように”が違うんですね。(喬太郎師P201)

喬太郎師が誰のために落語をやっているか、わからなくなった時があったそうです。喬太郎師の落語会にさん喬師がゲストで出演した時、まくらで「ご贔屓はありがたいのですが、贔屓の引き倒しという言葉があります」とおっしゃった。後でお客さんから「あのまくらの贔屓は私たちのことなの?」と。うちの師匠だって現役の芸人なのに、弟子のためによく言ってくれたなと、びっくりしたそうです。さん喬師の懐の深さが表れていますね。

さん喬師も喬太郎師も、お客さんや席亭などの要求と自分のやりたいこととの間に乖離があり、そのことで悩んでこられたようですね。私は、周囲のことはあまり気にせずに、両師匠のさなりたい落語が聴きたいです。それがベストなパフォーマンスだと思うので。

さん喬師が、「たちきり」のまくらの中で「お父さんと一緒にソープランドに行こう!」と叫んでいるのには、びっくりしました。でも、品の良いさん喬師がおっしゃるから、よりおもしろいのかなとも思いました。

 

以下は、本書の中で何度も読み返したさん喬師の言葉です。落語とは直接関係ないけれども、印象に残ったので。

死は誰にでも必ず訪れる。でもその訪れを見すえた生き方をするのはよそう。いつ死ぬかわからない、いつまで生きるかわからない。だけど、その中で自分が今まで通り生きていくこと、それが本当は人間の生き方なんだろうと、今は考えています。(P.154~155)

今の私には、「今まで通り生きる」は、とても難しいのですが、忘れないようにしたいです。

f:id:tadashiro:20190213184714p:plain

 

このブログについて/プライバシーポリシー