【この記事の目次】
会話から地の文へのシームレスな移行(例えば『天狗裁き』)
サゲに使われる場合
落語では、登場人物の台詞がサゲ(落ち)となっている場合、台詞の口調からナレーションの口調に滑らかに変化するような表現や、どちらともつかないような表現が選択されることがある。
役者とナレーターを1人で兼ねる落語ならではの表現方法であり、他の舞台芸術では見られない技法であると言えるだろう。
ソフトランディング
どのような理由で落語家がそうしているのかは分からないが、我々の感じ方には、言わばソフトランディングのような効果をもたらしている。
噺が終われば、我々は空想の世界から現実の世界に戻らなければならない。空想世界そのものの表現で終わった場合、我々は現実世界へ一気に引き戻されるか、自力で戻ってくるか、いずれにしても大きなギャップが生じるだろう。
その段差を緩和し、そっと優しく現実世界へ降ろしてくれるような、そういう優しい表現だと感じている。
噺の途中で使われた場合(『天狗裁き』の場合)
では、そのシームレスな表現が噺の途中で使われた場合、どのような効果をもたらすのだろうか。
柳家さん喬の『天狗裁き』にそのような場面があるので、それについて考えてみたい。*1
※ 『天狗裁き』のあらすじを確認したい方は ここをクリック してください。
立ち退き要求から奉行所へ
その場面は、夢の内容を話さない八五郎に腹を立てた大家が、立ち退きを要求した後に訪れる。
「奉行所へ訴え(てやる)」と息巻く大家に向かって八五郎が言い返す台詞、「ああ、訴えてもらおうじゃないか」の後半から口調が滑らかに変化し「と、家主の吝兵衛が願書をしたためまして・・・」というナレーションに続いていく。
大きな転換点
ここは場面が大きく転換するポイントだ。
ご近所の「些細な揉め事」だったものが「奉行所への訴え」へと、話が一気に大袈裟になり、同時に、舞台も長屋から奉行所へと、距離的にも質的にも大きな隔たりがある場所へと飛ぶ。
落語は、できるだけナレーションを少なくし、会話を中心に話を進めていくものだが、これほど大きく場面が転換する場合は、ナレーションを使わざるを得ないだろう。
もしも境目が目立ったら
たかだか夢の話で立ち退きを要求したり、奉行所へ訴え出るなど、冷静に聞けば全く荒唐無稽な話だ。
もしも、場面転換の境目が目立ってしまったら、客はふと冷静になり、「そんな馬鹿な」と思ってしまうかも知れない。
しかし、会話から地の文へのシームレスな移行は、そのような違和感を抱かせずに場面を大きく転換することを可能にしているのではないだろうか。
*1: