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『天狗裁き』のエスカレーション

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柳家さん喬の『天狗裁き』を聴いてから、こんな単純な噺がなぜ面白いのかを考えているのだけど、今回はさん喬の上手さについてではなくて、噺そのものについて考えたことを発表してみようと思う。

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※ なお、基本的に柳家さん喬の口演に準じています。細かい部分で他の演者のものと相違点があるかも知れませんが、ご承知おきください。*1

※ 『天狗裁き』のあらすじを確認したい方は ここをクリック してください。

 

【この記事の目次】

天狗裁き』のエスカレーション

天狗裁き』という噺、「夢を見たの見ないの」という夫婦の些細な言い争いから始まるナンセンスな噺だ。

うたた寝している夫を起こし、「夢の内容を教えろ」と言う妻、「夢など見ていない」と言う夫、それがやがて夫婦喧嘩に発展し、隣人が仲裁に入るのだが、その隣人も夢を聞きたがったことから喧嘩に発展し、それを止めに入った大家が・・・と、後は同じ展開が繰り返される。

ほとんど同じ展開の繰り返しなので、普通に考えると単調になりそうなものだが、この噺の場合は、人物が登場する順序が工夫されていることにより、繰り返しが面白さを生み出す要因なっているところが興味深い。

社会の最小単位

うたた寝をしている八五郎を妻が起こすところから物語が始まる。妻は八五郎の様子から「夢を見ていた」と判断し、その内容を聞かせろと迫るのだが、八五郎は「夢など見ていない」と主張し、言い争いになってしまう。*2

やがて本格的な夫婦喧嘩に発展し、その仲裁に現れた隣人が・・・と物語が展開していくのだが、「家族は社会の最小単位」という言葉が示すように、この夫婦関係が、この後のエスカレーションの正に起点なのだ。

そして、この2人の関係が対等であることに留意しておきたい。

隣人の登場

夫婦喧嘩があまりにも激くなったため、長屋の隣人が仲裁に現れる。隣人は八五郎の妻を自分の家へ行かせた後、八五郎に「夢の内容を聞かせろ」と言い出して・・・と物語が進むが、これはつまり、水平方向に社会が広がったと考えることができるだろう。

マルチロールの大家

隣人とも激しい喧嘩に発展してしまったので、その仲裁に大家が現れる。大家は隣人を退けた後、やはり夢の内容を聞きたがり・・・と、予想通りの展開をするわけだが、これが面白く感じられる最大の要因は「話が大げさになった」ためであると考えられる。

江戸時代、店子の法的権利は極めて弱かったと言われており *3 、大家と店子の間には明確な上下関係があったと考えられる。*4

しかも、大家は「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉を持ち出し、(擬似的ではあるが)親子関係を盾にして八五郎に迫る。

それでも夢の内容を話そうとしない八五郎に対し、大家は自らが町役人 *5 であることさえも持ち出すのだ。

つまり、大家は文字通り家主であると同時に、親であり、町役人でもあり、そのいずれもが八五郎よりも上の立場であることを示す。即ち、妻から隣人へと水平方向に拡大してきた関係性が、垂直方向へも拡大し始めたことを示している。*6

権力と権威の象徴

大家は夢の内容を話そうとしない八五郎に腹を立て、店請証文を盾にして立ち退きを命じる。八五郎が従わなかったため、大家は奉行所へ訴え出るが、奉行は大家の訴えを退ける。そして、奉行は人払いをして・・・と、やはり八五郎の夢を聞きたがる。

これは即ち、町内会レベルから町奉行のレベルまで関係性が拡大したことを意味する。

しかし、それでも話そうとしない八五郎に対し、奉行は「お上より奉行の職をいただいておる、この余にも話ができんと申すか」と迫る。幕府の権威まで持ち出したことで、これ以上ない程までに話が大げさになってしまったことを示していると言えるだろう。

超自然的な存在

しかし、遂にそれさえも上回る者が登場する。超自然的な存在である天狗だ。

俗世のことなど遥かに超越しているはずの天狗さえもが、たかが夢の話を聞きたがることに滑稽さを感じるわけだが、仮にもっと早い段階で天狗が登場したとすれば、さほど面白い噺にはならないだろう。

天狗の登場で頂点に達する面白さは、天狗の登場それ自体によって生じるものではなく、段階を踏んで拡大していく過程こそが面白さの源になっていると言えるのではないだろうか。

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*1:

天狗裁き

天狗裁き

 

*2:起こされる前の八五郎の様子から判断すると、恐らくは夢を見ていたと思われるのだが、目覚める瞬間に夢の内容どころか、夢を見たことさえも忘れてしまったもの考えられる。八五郎にとっては全く記憶がないのであるから、「夢など見ていない」というのが彼にとっての事実であり、客観的な事実として「夢を見ていたとしか思えない様子だった」と言われたとしても、全く意味をなさないだろう。

*3:店子(たなこ)とは - コトバンク:外部リンク

*4:江戸時代どころか、日本において賃借人の法的な権利が向上したのはつい最近のことのはずだ。

*5:町役人 - Wikipedia:外部リンク

*6:この例が示すように、落語における「大家」は、多彩な役割を担わせることができる、非常に便利なキャラクターであると言える。

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