『鴻池の犬』という噺は、小僧が3匹の捨て犬を拾うところから物語が始まる。
当初、主人は飼うことを許さないが、引き取り手が現れたらすぐに譲り渡すという条件で認められることになり、小僧は喜んで世話をする。
しかし、そのうちの1匹が実際に貰われていってしまうと、小僧は心変わりをし、残りの2匹を邪険に扱うようになってしまう。
その心理について考えてみた。
なお、この記事は柳家さん喬の口演に準拠していることを申し添えておく。*1
【この記事の目次】
『鴻池の犬』と「すっぱい葡萄」
唐突に思える小僧の心変わりだが、これは物語を展開させるために無理に作られたきっかけというわけではなく、合理的な説明を加えることが可能だと思う。
小僧に何が起こったか
小僧は旦那の反対を押し切って飼い始めたこともあり、当初は愛情をかけて世話をしていたようである。
しかし、そのうちの1匹、黒犬が、とある理由で鴻池の関係者の目に留まり、大坂へ貰われていってしまう。
その後、なぜか小僧は残った2匹を邪険に扱うようになり、餌も与えず、箒で追い払うようになってしまうのである。
その理由については一切語られないため、唐突な印象を受けるが、小僧の心にどんな変化が起こったのかを推測してみよう。
喪失感
ある日突然、可愛がっていた犬の1匹がいなくなってしまった時の小僧の心境をひと言で表すとすれば「喪失感」ということになるのではないだろうか。
ということは、大きな「喪失感」を味わった小僧がどうなるか、それを考えれば良いことになる。
小僧の心配
小僧がもしも心変わりをせずに、2匹の犬を可愛がり続けたとしたら、どんなことが起こり得るだろうか。
新たな引き取り手が現れなければ、小僧が一人前になるまで飼い続けることができるだろう。
しかし、引き取り手が現れれば、小僧は再び大きな「喪失感」を味わうことになる。
小僧はそれを恐れたのではないだろうか。(それは無意識のことかも知れないが。)
すっぱい葡萄
小僧の心の中では、可愛がれば可愛がるほど、それを失うことへの恐れが大きくなるという矛盾が生じることになる。認知的不協和と言えるだろう。
それを解消するために、「すっぱい葡萄」と同じような心の動きが小僧の中で起こったのではないだろうか。
お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。
小僧にとって3匹の犬は「可愛がる価値のないものだったのだ」と認知の仕方を変えてしまえば、再び大事なものを取り上げられる恐れから逃れることができる。
また、既に貰われていった黒犬についても、「あれは価値がないものだったのだから、いなくなっても平気だ」と考えることで、落ち着きを取り戻したのではないだろうか。
人間なんて
以上のように小僧の心理を分析したわけだが、決して犬を捨てることを肯定しているわけではないということを念のため書いておきたい。
『鴻池の犬』では、残された犬のうちの1匹が大坂の犬との再会を期して旅をすることになるのだが、その事情を聞いた別の犬が次のような台詞を言う。
「人間なんてそんなもんだ。可愛がる時はいくらだって可愛がってよ。飽きてくりゃポイだ。物を捨てるように生き物を捨てやがるんだ。」
犬たちにそう言われないように、責任を持って飼いたいものである。*2