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しろのブログ

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「ねずみ」の人物像と「すこしふしぎ」の相似について

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これまでに4〜5人ほどの「ねずみ」を聴いた。今回は柳家さん喬のCDを中心に、他の落語家によるものと比較しながら、我々がどんな「ねずみ」を好むのかを考察してみた。

今回の主な論点は2つ。子どもの描き方と左甚五郎の描き方の2点だ。

まずは、子どもの描き方。宿外れで客引きをしている鼠屋の息子が布団の代金を前金で要求する場面にその違いが表れている。

脅すような言い方で二十文を出させようとする演じ方の落語家もいるのだけど、そうすると嫌味な子どもになってしまい、甚五郎が素直に二十文を出すのが不自然に感じられる。

一方、柳家さん喬の場合は、甚五郎が「脅かされてるみたいだ」と言っているが、本当に脅されているわけではない。甚五郎にそのように言わせた「おためでしょ」の言葉は、客を気遣って自然に出たものと解釈できる。

大人なら隠しておきたいような情報も開けっ広げに言ってしまう子どもの無邪気さに甚五郎は惹かれたのではないだろうか。

寿司を注文させられる場面で、「子どもは正直が宝さ」と言って、鼠屋の親子の分も気前よく金を出していることからも、そのように考えられる。

この息子は生駒屋の世話になっている状況から脱しようと、自ら父親に提案して客引きに出るような健気な子どもなのだ。

「大金を積まれても気に入らない仕事はしない」という甚五郎が鼠屋のために無償で「ねずみ」を彫る気になったのは、この親子の人柄のためであろう。

このこととも関連するのだが、2点目の左甚五郎の人物像について、疑問に思わざるを得ない演じ方を目にしたことがある。前述のように甚五郎は正直を美徳とする人物であるとするのが自然だ。

にも関わらず、その噺では「かつて飯田丹下との彫りもの対決において甚五郎が勝利を収めたのは、甚五郎が鰹節で鼠を彫っていたために、猫がかじり付いたからだ」とする話が挿入されていたのだ。

これでは、甚五郎が正直であるとは思えないし、無心で彫り上げることで「ねずみ」に命が吹き込まれたこととも矛盾してしまう。*1

 ここまでのことは、藤子・F・不二夫の「すこしふしぎ」という言葉を借りると説明しやすくなる。

ドラえもん」がその典型なんだけど、藤子・F・不二夫の作品の多くは、ありふれた日常に「すこしふしぎ」が紛れ込むことで、物語が展開する。

ドラえもんは非日常的な存在だが、彼の取る行動は日常を逸脱するものではない。また、「ひみつ道具」は非日常的なものだが、それを使う人間の動機や使い方は現実的なものであると言えるだろう。

つまり、「ねずみ」における「左甚五郎」は「ドラえもん」に相当し、木彫りの「ねずみ」は「ひみつ道具」に相当する。

木彫りの鼠が動き出すなんて、現実にはあり得ない事象なんだけど、それを日常に紛れ込んだ非日常として描いて欲しいのだ。だから、それ以外の部分については、特に人物については、合理的な行動を取るように演じてくれないと、妙な違和感を抱いてしまって、物語に没入できない。

ドラえもん」の登場人物達は、常にそれぞれの人物像に相応しい行動を取っている。もしも、意味もなくジャイアンが急に優しくなったり、出木杉くんが意地悪になったりしたらおかしいでしょ? だから、我々の好きな「ねずみ」は「ドラえもん」なのだ。ドラえもんはネズミが苦手だけど。

 

*1:「鰹節で彫った鼠」は頓智話としてよく知られており、吉四六さんや一休さんなど、様々な人物がその発案者として語られる。左甚五郎の逸話として落語で語られる場合もあるが、この噺の挿話としては相応しくないだろう。というのが我々の見解。

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