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「ねずみ」の番頭と女中頭が元々男女の仲だったとするかどうか

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複数の「ねずみ」を聴いているうちに、大きく2つの系統に分けられることに気付いた。我々はこれを「番頭と女中頭が元々男女の仲だったとするかどうか問題」と名付け、議論してみた。

この違いは、物語全体の印象を左右するほどの違いだと思うのだが、良し悪しの問題ではなく、好みの問題に行き着くと思う。しかし、その好みを明らかにするのが、当研究会のテーマのひとつだ。我々はどっちが好きなんだろう。そして、それはなぜなんだろう。

議論の前に、好みの問題とする理由を述べておこう。上手い人が演じたものなら、どちらの噺でも愉しめるからだ。「恋仲だった派」としては、春風亭小柳枝 *1 を挙げておきたい。一方の「それには触れない派」としては、柳家さん喬を挙げたい。

 さて、まずは「恋仲だった派」について。元々関係があったとすると、どのような効果があるか。これは、悪事を働いた番頭にもそれなりの理由があったということになるので、「根っからの悪人はいない」としたい場合に、こちらが好まれるだろう。落語的な人間観であると言えるかも知れない。これがメリットなのではないかと考える。

しかし、同時にデメリットもあると思う。鼠屋の主人が「2人に関係があった事実を知らなかった」とするならまだしも、「2人に関係が合った事実を知りながら、女中頭を後添えにした」と解釈される場合、下手に演じると、復讐合戦の印象が生まれかねない。鼠屋の主人への同情が薄れ、むしろ全てを失う番頭の方に同情が寄せられてしまうのではないか。番頭は踏んだり蹴ったりという印象だ。*2

そして、「それには触れない派」。実はこちらも「触れない」だけで、「恋仲だった可能性」、あるいは、「事実はあったが知らなかった可能性」はあるのだが、普通はそのような解釈をしないだろう。元は恋仲ではなかったと考えるのが自然だ。この場合、番頭か女中頭のどちらか、あるいは両方が悪者だということになる。即ち、前述の「恋仲だった派」のメリットの裏返しになり、デメリットになり得ると言わざるを得ないだろう。

しかし、大きなメリットもある。例えば、柳家さん喬は鼠屋が繁盛した理由を、「お前さんの徳だ。人徳というものだ。」と左甚五郎に語らせている。つまり、左甚五郎が「ねずみ」を彫ったのは懲悪が目的ではないということだ。鼠屋の主人はその人柄によって福を呼び込み、番頭はその悪行に対する当然の報いを受けたと解釈することができる。因果応報と言えるだろう。これは日本の民話に再三登場する思想であり、それを表現できることが最大のメリットであると考えられる。

と言うわけで、双方にメリットとデメリットがあるわけだが、最後に我々が好むのはどちらかを発表すると、「それには触れない派」である。もう、本当に結局ただの好み。でも、小柳枝の「ねずみ」は好き。上手いから。

 

*1:春風亭小柳枝ホームページ(外部リンク)

*2:春風亭小柳枝ほどの名人が演じると、そのような印象は薄く、悪い印象は生じないが、残念ながらそういう落語家ばかりではない。

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