少し気分が落ち込んでいるとき、どんな落語を聴くのが良いだろうか。
あえて人情噺を聴いて涙を流し、カタルシスを得るという手段もあるが、人情噺をしっかり聴くには、ある程度の集中力が残っていなければならないので、落ち込みが激しいときには、涙を流すまでに至らないこともある。
そういうときは、バカバカしい滑稽噺の方が良いかもしれない。気楽に聞けて、気楽に笑えるからだ。
そういう噺のひとつに「寝床」がある。中でも、当研究会が推薦するのは、柳家さん喬の「寝床」だ。*1
今回は、その「寝床」について、当研究会の考えを述べてみたい。(「気楽」なはずの噺に何を真剣になっているんだか・・・というツッコミは脇へ置いておこう。)
【この記事の目次】
「寝床」で旦那が唸る義太夫はジャイアンリサイタルかもしれないが、旦那自身はジャイアンであって欲しくない
巷では「ドラえもん」の「ジャイアンリサイタル」は「寝床」が元ネタであるという噂があるようだ。確かに「ジャイアンリサイタル」と「寝床」は共通点が多く、藤子・F・不二雄が参考にしていたとしても不思議ではない。当研究会もその可能性が高いと考えているが、同時に明確に違う点が1つあると考えている。それは、「ジャイアン」と「旦那」の人物像の違いだ。
「寝床」とはどのような噺か
「寝床」とは、義太夫に凝っている旦那が、義太夫の会を催して、長屋の住人たちに自分の義太夫を聴かせようとするが、聞くに堪えない下手さゆえに、誰もが何やかやと言い訳をして招待に応じない。そこで旦那は使用人たちに聴かせることを思いつくが、みな仮病を使って聞こうとせず、臍を曲げてしまった旦那が・・・という噺だ。
「ジャイアンリサイタル」と類似しているのは明らかだが、だからといって、「寝床」の「旦那」が「ジャイアン」であるとするのは早計だ。(これ以降、「寝床」の登場人物としての「旦那」「番頭」等は、イタリックで表記する)
「寝床」の旦那
「寝床」における旦那は人情味に溢れていて、「あの義太夫さえなけりゃねぇ・・・」と言われるような好人物だ。(少なくとも柳家さん喬はそのように演じている。)
以下に旦那の人物像が窺える場面を書き出してみよう。
それぞれの事情を気遣う旦那
旦那に招待された長屋の住人たちは、何やかやと理由を付けて招待を断るのだが、旦那はその理由をまったく疑わず *2 、理解を示す。ここで、もしも1人でも招待に応じていれば、旦那の横暴な振る舞い引き起こされなかった可能性がある。
社交辞令を真に受けてしまう旦那
長屋の住人の1人は、「前回の義太夫の会に参加できなかったことは残念だ」という旨の社交辞令を旦那に伝えたことがあるのだが、旦那はそれを社交辞令とは解釈せず、言葉通りに受け取ってしまう。人の良さが窺えるが、皮肉なことに、それが自身の義太夫を聴かせたいと熱望する一因になっていると言える。
木戸銭を取らず、土産まで持たせる旦那
旦那が語るところによると、これまでに催された義太夫の会では、一度も木戸銭を取らず、料理や酒を振る舞い、土産まで持たせるようにしてきたという。人をもてなそうとする気持ちを持っていることは間違いない。
「芸惜しみ」のひと言で機嫌を直す旦那
誰一人として義太夫を聞こうとしないことに臍を曲げた旦那は、長屋の住人に対しては強制退去を、奉公人に対しては解雇を通告しようとするが、気を利かせた番頭が長屋の住人を説得して周り、招待に応じさせる。
その上で番頭は旦那に義太夫を促すのだが、旦那の機嫌はすぐには直らない。しかしながら、旦那は、もう一押しすれば、機嫌が直る可能性が高いことを番頭に気付かせ、説得のやり直しをさせる。その際、番頭は旦那に対して「だぁ様 それは芸惜しみっていうもんでしょう *3 」というキラーフレーズを放ち、そのひと言で途端に旦那の機嫌が直ってしまう。怒りを長く引きずらない性格が表現され、愛らしい人物であるという印象を抱かせる場面だ。
旦那の横暴はジャイアニズムと言えるのか
さて、臍を曲げた旦那が腹いせに講じようとした手段は、ジャイアン的であると言えるかもしれないが、当研究会はどうも、旦那がジャイアンであるとは思えない。
旦那とジャイアンの違い
これまで述べてきたように、旦那は各人の事情に対して最大限の配慮をしようとしており、木戸銭を取ろうとはしない。他人の事情など一切考慮せずにリサイタルへの参加を強制し、入場料を要求することさえあるジャイアンとは異なっている。
また、旦那が義太夫の会を催す動機のひとつに、「義太夫はとても良いものだから聴かせてあげたい」という親切心があるようにも思える。
同情を誘う旦那
のび太の視点から描かれる「ドラえもん」に対し、「寝床」は旦那の視点で描かれる。しかも、旦那は義太夫さえ除けば愛すべき人物だ。必然的に感情移入するのは旦那ということになる。
それゆえ、楽しみにしていた義太夫の会に1人も参加しようとせず、旦那が怒りを露わにする場面では、「可哀想」という感情が浮かぶだろう。
旦那は旦那であり、ジャイアンはジャイアンである
誤解されないように書いておきたいが、当研究会は「ドラえもん」も大好きだ。「寝床」の旦那はジャイアンではないと主張したいだけであり、ジャイアンが旦那のようになってしまったら、ジャイアンリサイタルの面白さは半減してしまうだろう。
逆に旦那を単純にジャイアンと同一視して演じて欲しくないなぁ、というのが当研究会の願いだ。
「聴き比べ」についてはまたの機会に
複数の「寝床」を聴いて、少し思うところがあったのだが、ここまでで随分長くなってしまったので、それを書くのはまたの機会にしようと思う。
求めている人がいるかは分からないが。