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「千両みかん」を現代的に「拡大解釈」してみる

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7月も半ばだというのに北海道はまだまだ寒くて、暖房を使っていたりするのだけど、そんな北国にも暑い夏が来てくれることを願いながら、柳家さん喬の『千両みかん』を聴いてみた。

※ あらすじを確認したい方は ここをクリック してください。

【この記事の目次】

『千両みかん』を現代的に「拡大解釈」してみる

この噺、簡単にまとめると、蜜柑が食べたくても手に入らないことで臥せっている若旦那のために、番頭が奔走して蜜柑を手に入れてくるという話だ。その蜜柑の価格が千両であったことから、『千両みかん』(あるいは『千両蜜柑』とも)という演題になっている。

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『千両みかん』の「きず」

長井好弘は、『柳家さん喬2』*1 に寄せた「柳家さん喬の[千両みかん]と[ちりとてちん]」という文章の中で、『千両みかん』を含めたいくつかの噺について次のように述べている。

これらのネタに「きず」があるのは、噺家なら先刻承知。たいていの演者が、時代遅れの設定や考え方を、今風に直そうとする。

さん喬のアプローチ

その上で、「さん喬のアプローチは違う」とし、

噺自体をいじるのではなく、まず噺の背景となる町並み、自然や、季節の移ろいを丹念に掘り下げることで、その時代の「風景」を一幅の絵のように浮かび上がらせる。

と評している。

これについて何ら異論はない。さん喬が枕のなかで語る夏の暑さと、その暑い最中にかつて食べたというトマトの清涼感は強く印象に残り、聴き手の感覚が噺の世界に同調するのを助けてくれる。

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未解決の「きず」

そして、長井はさん喬のその上手さによって、

噺の「きず」は何ら解決していないのに、「それもいいか」という気になる。

とも述べている。

我々は、さん喬が「きず」を「きず」であると感じさせないほどの名人であるということついては、完全に同意するのだが、『千両みかん』の「きず」の「解決」については、違う視点から考えてみたくなった。

長井の言う「きず」は、落語家が解決すべき問題なのだろうか。聴き手の側のちょっとした解釈の工夫で解決できる可能性はないのだろうか。

「きず」の解決を試みる

長井が挙げている「きず」は次の2点だ。

  • 「真夏にみかんが食べたい」という悩みの深さの、実感がわかない。
  • みかん三袋を持って逃げる番頭の行動に、ついていけない。

我々はこの「きず」を柳家小三治が言うところの「拡大解釈」を用いることで解決したいと考えた。

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小三治の「拡大解釈」

小三治は『なぜ「小三治」の落語は面白いのか?』*2 において、「拡大解釈」という考え方を提唱している。

泥棒の噺のための「拡大解釈」

例えば、「妹の菓子を取って食っちゃった」ときの「後ろめたさ」とか、「親の財布から百円玉持ってっちゃって」それが見つからないかと「ドキドキしてる」というようなものの「拡大解釈」が「泥棒の噺になる」と語っている。

『藪入り』の「拡大解釈」

あるいは、『藪入り』について、

東京に働きに出た、どっかに働きに出た者が、久しぶりに親元に帰った時の、その嬉しさ、懐かしさ、悲しさ・・・・・・そういうものは今だって、まったく変わらない」

とも述べている。

「悩みの深さ」を実感するための「拡大解釈」

この「拡大解釈」を『千両みかん』にも使えないだろうか。

まずは、若旦那の「悩みの深さ」を「みかん」への「こだわり」として「拡大解釈」してみたい。

『擬宝珠』を手がかりに

手がかりになるのは、柳家喬太郎の『擬宝珠』だ。『千両みかん』と『擬宝珠』に類似点を見出すのは、我々だけではないと思うのだが、いかがだろうか。

『擬宝珠』について、『柳家一門名演集 一』*3 の「演目解説」で瀧口雅仁は、

近年では演じる人もなく、喬太郎が古い速記からおこして、自分流にアレンジを加えて完成させた落語

と述べている。

喬太郎がこの噺を掘り起こした理由は、恐らく若旦那の「こだわり」に、自身の「こだわり」との共通点を見出したからではないかと推測する。(ちなみに、その喬太郎の「こだわり」が「タバコ」と「ウルトラマン」であることは、前述の「演目解説」で瀧口が書いているが、ファンにはよく知られていることなのではないだろうか。)

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現代人の「こだわり」

喬太郎に限らず、何らかの「こだわり」を持っている人は多いのではないだろうか。「大人買い」のような言葉の存在がそれを表していると思う。

 

何かの蒐集や趣味に大金を費やす人は枚挙にいとまがない。自分自身がそうでなくても、その様な人を目にする機会は頻繁にあるだろう。

例えば、海外で開催されるフィギュアスケートの大会などを見ていると、必ずと言っていいほど、「この人はいったいどれだけのお金と時間をかけているのだろう・・・」と思うような観客の姿が見られる。

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当研究会だって、落語を聴くために相当な金と時間を費やしているので、人のことを言えない。

価値観の相対化

ウルトラマン」も「落語」も、興味のない人にとっては全くの無駄としか思えないような出費だろうが、当人たちにとっては、それだけのものをかける価値があるものだ。

若旦那にとっての「みかん」がそれに当たると考えることはできないだろうか。

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番頭の苦悩の「拡大解釈」

2点目の「番頭の行動」ついては、『たちきり』の枕と同様の「値打ちの誤解」*4 を使ったサゲと解釈するのが妥当なのだろう。多少強引だとしても、それが逆に落語らしいと言える。

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しかし、ここではサゲというよりも、「番頭の苦悩」そのものを、経済的な面から「拡大解釈」することによって俯瞰することを試みたい。

江戸時代の経済

江戸時代には貨幣経済市場経済が発展していたと言われている。

鈴木浩三は、江戸時代の市場経済システムについて「当時としての市場メカニズムが機能する資本主義的な側面を色濃く持った時代」と述べている。*5

現在でも株価の値動きを表すのに使われている「ローソク足チャート」*6 が、江戸時代に米相場のために考案されたと言われていることなどからも、そのことが窺える。

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江戸時代の「格差」と現代の「格差」

紀伊国屋文左衛門 *7 の伝説については、公的な記録が少ないことから、架空の人物であるとする説もあるようだが、少なくともそのような伝説が作られるくらいには、江戸時代は「格差」があったのであろうと想像する。

そして、現代の我々も「一億総中流」という幻想から醒め、今や「格差社会」に生きていると言ってもいいだろう。

外資から送り込まれた経営者が、容赦のないリストラを断行しながら、莫大な額の報酬を得ているというような事実に触れると、否が応でも「格差」というものを意識させられる。

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資本家と労働者

『千両みかん』における「大旦那と番頭」の関係は、現代における「資本家と労働者」の関係に相当すると見なしてもいいだろう。

ならば、例えば、「社長が宇宙旅行に行ってしまうような会社の従業員は、どれくらいの給料で働いているのだろう、どれくらいの退職金が貰えるのだろう・・・」などと思いを巡らせることを、「番頭の苦悩」を想像する手がかりとしてもよいのではないだろうか。

現代にこそ相応しい『千両みかん』

このように考えてみると、『千両みかん』の「きず」は、「夏にミカンが手に入りにくいということの実感がわかない」というだけになり、それさえ枕で補ってもらえれば、現代との共通点が極めて多い物語として楽しむことができるのではないだろうか。

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