当研究会では、柳家さん喬の『百川』*1 の人気が非常に高く、常にヘビーローテーション状態にあるため、普通なら気にならないような些細なことまで気になってしまうのかも知れない。
今回は、1年ほど前に柳家さん喬が「日本の話芸」で演じた『百川』*2 で気になった箇所について、当研究会で議論してきたことを発表しようと思う。
※この記事には、いわゆる「ネタバレ」が含まれており、初めて聴くときの面白さを損なう可能性があります。『百川』を聴いたことがない方は、一度聴いてから読むことをお勧めします。
【この記事の目次】
『百川』で百兵衛に遣いを頼む時に若い衆がする仕草は必要か
「日本の話芸」で柳家さん喬が演じた『百川』で、1つ気になることがあり、当研究会で議論を重ねてきた。その気になる箇所とは、この記事のタイトルの通りなのだが、少し説明を加えよう。
※『百川』のあらすじを確認したい方は ここをクリック(ネタバレ注意)してください。
百兵衛が「掛け合い人」ではなく「抱え人」であることが判明した後、河岸の若い衆は「常磐津の歌女文字」なる人物を呼びに行くように百兵衛に命じる。
その際、河岸の若い者が「三味線を弾く仕草」をしながら百兵衛に指示を出すのだが、それを最初に見たときの我々の感想は「へぇー、こんな仕草を入れていたんだぁ・・・」というものだった。
実はCDでは何度も繰り返し聴いていたのだが、映像を観るのはその時が初めてだったので、予想もしていなかった仕草に少し戸惑うと同時に、ちょっとした違和感を抱いた。「三味線の仕草」は必要なのだろうか。
もしも、「常磐津」というものが何なのかを知らない客の理解を助けるために入れられた仕草なのだとしたら、「無くても良いのではないか」というのが我々の考えだ。
「三味線の仕草」不要論
「常磐津」とは何なのか。我々が最初に『百川』を聴いたときは、その知識を有していなかった。
だから、我々が不要だと考える理由は「常磐津がどんなものであるかは誰もが知っている常識なのだから、余計な説明は不要だ」というものではない。
恐らく、かつては常識だったのだろうし、我々が知らなかっただけで、現在においても常識なのかも知れないが、我々としては「たとえ常識ではないとしても」不要だと考えている。
「常磐津」を掴む過程
「常磐津」を知らない状態でこの噺を聴いた場合、どのように「常磐津の歌女文字」なる人物のイメージを構築することになるのか、その過程を確認しておこう。
「師匠ってんだ、師匠」
「かめもじ」という「先生」を呼びに行けということか、と確認する百兵衛に対して、若い衆が「先生」と称した百兵衛を嗤いながら、「師匠ってんだ、師匠」と訂正する。
この時点で、「かめもじ」なる人物が何かしらの「師匠」であろうということは推測できるだろう。
その後、百兵衛は若い衆に指示された通りに長谷川町へ赴き、人探しを始める。しかし、目的の人物の名を失念してしまったため、「かの字の付く名高い人」と尋ねることになる。そこで町の人に「その人は鴨池玄林という外科の医者だろう」と言われる場面。ここで、「常磐津」についての知識を有している方が、笑いに結びつきやすいだろう。
しかし、文脈から考えて、若い衆が「医者」を呼びに行かせるとは考えられないし、探している人物が何かの「師匠」であるということさえ分かっていれば、十分に笑えるのではないだろうか。
卵を飲んで良い声を・・・
百川に戻った百兵衛が、怪我人だと勘違いした医者からの指示を若い衆に伝え、若い衆が無理矢理に歌女文字からの伝言として解釈する場面。「さらしを巻いて、卵を飲んで、良い声を出す・・・」という言葉から、「声を出す」芸事の師匠であるということが分かる。
三味線の箱
さらに、若い衆が「三味線の箱ももらってきたな」と確認していることから、「三味線を弾く」ということも分かる。
浮かび上がる「常磐津の歌女文字」
総合すると、「常磐津の歌女文字」なる人物は、「声を出したり三味線を弾いたりする芸事の師匠」であるということが浮かび上がる。
ここに至ってから、あるいはサゲまで聴き終わってから、百兵衛が門違いな人物を訪ねてしまったことを振り返り、思い出し笑いをしたとしても、この噺を十分に楽しめたと言えるのではないだろうか。
「知らないからこそ」の面白さ
次に、「知らないからこそ」味わえる面白さがあるのではないかということを述べたい。
前述の通り、当初、我々は「常磐津」を知らなかったため、「常磐津の歌女文字を呼んでこい」という台詞を初めて聞いた時は、「トキワヅって何だろう・・・」という疑問を抱きながら続きを聴くことになった。それはつまり、百兵衛の置かれた状況に近く、振り返って見ると「百兵衛に感情移入をしながら」聴いたのではないかと思う。
そして、2度目以降は「常磐津の歌女文字」がどのような人物かを知った上で聴くことになり、「客観的に」物語を楽しむことができるようになったと思う。
楽しみ方が変わる映画のように
詐欺師を主人公とした『スティング』という映画がある。
この映画を初めて観るときは「騙される側」に近く、2度目以降は「騙す側」の視点で楽しむことになると思う。
もう少し新しい映画を挙げておくと『オーシャンズ11』などでも同様のことが言えると思う。
『百川』の場合は、我々と同様に「知識不足であること」が前提となり、観客をミスリードすることを意図して作られた物語とは様相が異なるのだが、時代の変化が招いた思わぬ副産物と言えるのではないだろうか。
こだわる理由
なぜここまでこの仕草にこだわっているのかというと、百兵衛の人物像を限定してしまう可能性があるからだ。
百兵衛は「かの字の付く名高い人」が「医者」だろうと言われて何の疑いも持たなかった。ということは、百兵衛が何らかの理由で「三味線の仕草」を目にしなかったのか、目的の人物を表現する仕草だと解釈しなかったためか、というような合理的な説明を考えるか、あるいは本当に「抜作」だった可能性を考えなければならなくなる。
百兵衛が抜けているのか、いないのか、判然としないままの方がこの噺は面白いのではないだろうか。我々としては、「三味線の仕草」が無い方が解釈の自由度が上がるのではないかと考えている。
もちろん、異論はあるだろうが、そういう場合は「へぇ、こういう意見もあるんだなぁ」ぐらいで聞き流していただきたい。
それから、さん喬がまったく違う意図で入れている仕草なのだとしたら、この議論の前提が崩れてしまうわけだが、好きな噺についてあれこれ考えること自体が楽しいので、我々としてはまったく問題はない。ここまでお付き合いいただいた読者の方には申し訳ないけど。