以前、『井戸の茶碗』についての記事を書いていた時に、続けて書こうと思っていたのだけど、年末年始になったり、東出ブームが起こったりして、タイミングを逸していたことを書いておこうと思う。
この噺の後半、「細川」という殿様が出てくるのだけど、その描き方に大きな違いがあることに驚いたという話。
※ 『井戸の茶碗』のあらすじを確認したい方は ここをクリック してください。
【この記事の目次】
『井戸の茶碗』の「細川様」の描写について
『井戸の茶碗』という噺では、仏像にまつわる若侍と浪人の意地の張り合いの後、話が落ち着いて一件落着かと思ったところで再び騒動が起こる。
事を収めるためとして浪人から若侍の手へ渡った茶碗を殿様が所望し、大金で譲り受けたために、再び意地の張り合いになってしまうのだ。
我々が気になったのは、その時に描写される殿の様子である。
風流人の殿様
我々がよく聴いていたのは、殿を風流人として描くものだ。
2人ほど例を挙げておきたい。
柳家さん喬
柳家さん喬の口演 *1 では、「細川越中守」がその茶碗に目を留める。「鑑定家」を呼んで、目利きをさせると、「殿、ご推察通りにございます」と述べて「青井戸の茶碗」という名器であると言う。
柳家権太楼
柳家権太楼の口演 *2 では、「細川のお殿様」がその茶碗を眺めているうちに、「鑑定士」が「井戸の茶碗」であると気付く。すると殿は「これが井戸の茶碗か」と、それを所望する。
2人の共通点
さん喬の場合は、殿が「鑑定家」を呼び出して目利きをさせるという流れになっており、殿がその価値にはっきりと気付いていたものと考えて良さそうだ。
一方の権太楼の場合は、殿が気付く前に「鑑定士」のほうから声を上げるという流れになっているが、手にとって眺めているということは、少なくとも興味を示していると考えて良さそうだし、その後の台詞から考えると、殿は以前から「井戸の茶碗」の存在は知っていたと考えられる。
このように、殿の目利きの程度に違いはあるが、どちらも「井戸の茶碗」の価値を知っているということについては共通している。
「井戸の茶碗」を知らぬ殿様
我々が驚いたのは、上記のような違いではなく、細川の殿様が「井戸の茶碗」を全く知らなかったような演じ方があるということだ。
だいたい以下のような流れだ。
若侍が「その時の茶碗でございます」と見せても、殿はそれに何の興味も示さない。しかし、同席していた「道具屋」の主人が「井戸の茶碗」という名器であることを伝えると、「余は好むぞ」と言って、その茶碗を所望する。
細川の殿様と言えば
「細川の殿様」と言われて、我々がすぐに思い浮かべる人物が2人いる。
細川忠興
1人目は「細川忠興」。肥後細川家の初代だ。
「ガラシャの夫」と言ったほうが分かるという方もいるだろう。
忠興は茶人としても有名で、その場合は「三斎」という号を名乗っていたらしい。
ちなみに、「越中守」の官位を持っていたようだが、「細川越中守」は他にもいるので、「越中守」と言っても、忠興とは限らない。
細川護煕
もう1人は「細川護煕」。元総理大臣だ。
護煕氏は忠興の子孫で、細川家の第18代当主らしい。
陶芸家、茶人としても知られている。
風流人のイメージ
何が言いたいのかというと、「細川の殿様」って風流人のイメージじゃないですか? ということだ。
代々の細川氏が皆そうだっかは分からないのだが、護煕氏が政界引退後に陶芸家をしているという話を聞いた時、「あぁ、やっぱり細川家の血筋なのだなぁ」と思った記憶がある。
大井戸茶碗『細川』
ちなみに、「細川 井戸の茶碗」で検索するとヒットするページに次のようなものがある。
このページによれば、細川三斎(忠興)が所持していたことが銘の由来であるという。
『井戸の茶碗』の、江戸時代に浪人の手から渡ったとする物語と矛盾するので、落語に出てくる「井戸の茶碗」がこれだということはできないが、イメージとしてはこれを思い浮かべても差し支えないのではないだろうか。
どちらがお好み?
細川の殿様を風流人としない演じ方と、それを好むことを否定する気は全く無いのだけど、我々が好むのは、風流人として演じるほうだ。
こちらの勝手なのだが、「細川藩」あるいは「細川の殿様」と言われると、風流人のイメージを持ってしまうので、それと合わない演じ方に違和感を持ってしまうからだ。
我が儘が過ぎるかも知れないが、風流人としないのであれば、「細川」の名を出さないか、違う名にして欲しいと思ってしまう。
また、善人ばかりが登場し、爽やかな印象が強い噺である『井戸の茶碗』にあって、その価値も分からないのに他人から「貴重な品だから」と言われただけで大金を出して自分の物にしてしまおうとする殿様は、噺の爽やかさを僅かながら損なう存在のように感じられる。
こういった理由から、我々は風流人とするほうを好むのだが、いかがだろうか。
まあ、結局は「好みの違い」というだけの話なのだが。