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『ねずみ』で飯田丹下が彫った虎について考えてみた

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ねずみ年になったので、久々に柳家さん喬の『ねずみ』を聴いてみた。*1

虎の彫り物のくだりを聴く度に、この噺とは恐らく関係が無いだろうと思いながらも、どうしても思い浮かんでしまうことがあって、今回はそれを書いてみようと思う。

※ サゲ(落ち)について思い切り触れていますので、ネタバレが気になる方は、閲覧を避けた方がいいでしょう。

※『ねずみ』のあらすじを確認したい方は ここをクリック してください。

【この記事の目次】

『ねずみ』で飯田丹下が彫った虎について考えてみた

左甚五郎の「福鼠」が評判になっている鼠屋に対抗して、虎屋の主人は飯田丹下に虎を彫らせる。

その虎が違う動物 *2 に見えてしまったことで「福鼠」が動かなくなってしまうのだが、この時代に虎を彫ることは多分難しかったはずで、その点では飯田丹下に少し同情したくなる。

二代目政五郎の評

「あの目。嫌な目してるね。虎があぁいう目しちゃいけねぇやな。」

鼠屋の主人から「福鼠」の異変を知らされた左甚五郎は、二代目政五郎を伴って様子を見に来る。そして、政五郎に虎の感想を問うのだが、それに対する政五郎の答えがこの台詞だ。

この後に、政五郎の台詞が「なんかこう恨んでるみてぇな、ね。嫌味な目だね。」と続くこと、また、甚五郎が「飯田さん、心が動いたと思うがね」と言っていることから、飯田丹下の心の乱れが虎の目に宿ってしまい、そのせいで虎に見えなかったとする解釈が正しいのだと思う。*3

だから、これから書くことは関係ないだろうとは思うのだけど、虎の「目」に注目すると、丹下の虎が虎に見えなかった理由がもう1つ思い浮かんでしまう。

木彫りと単純に比較はできないと思うのだけど、日本画の虎のことをどうしても考えてしまうのだ。

瞳の形

日本画のモチーフとしてよく使われている印象のある虎だが、実はその多くが間違っているらしい。(ただし、ここで言う「間違っている」というのは「生物学的に」という意味で、それによって芸術的な価値が損なわれるわけではない。)

日本には虎が棲息していなかったので、江戸時代に実物を見たことがある人は恐らくほとんどいなかったはずだ。可能性があるとすれば、朝鮮出兵に従軍した兵士くらいだろうか。

毛皮は持ち込まれていたらしいけど、それ以外の部分は見ることができない。

で、猫のように瞳を縦長に描いてしまうことが多かったようだが、本当は虎の瞳は丸いらしい。

「猫でない証拠に竹を画きて置」なんていう川柳もあったそうで、虎が猫に見えてしまうことはよくあったのだと思われる。

style.nikkei.com

伊藤若冲長沢芦雪

では、実物を観察することに拘っていた伊藤若冲 *4 どうしたのかというと、大陸から渡ってきた絵を模写したらしい。だから虎の瞳が丸い。「日本には虎がいないんだから、写すしかないじゃん」と言ったとか言わなかったとか。

一方、長沢芦雪 *5 という絵師は、堂々と猫っぽい虎を描いたらしい。でも、実は「魚の目から見た猫はきっとこんな感じだよ」という頓智らしく、だから、縦長の瞳でも問題ない。

intojapanwaraku.com 

もしも飯田丹下が・・・

もしも、虎に見えなかった原因が瞳を縦長にしてしまったことにあるとして、その上で、もしも飯田丹下が伊藤若冲長沢芦雪のような解決策を取っていたら・・・という、仮定に仮定を重ねることになってしまうが、シミュレーションをしてみたい。

伊藤若冲方式

もしも飯田丹下が、絵画なり、木彫なり、大陸から持ち込まれたものを模倣したらどうだろう。

オリジナルの出来と、それをどれだけ忠実に写し取れるかによって左右されるが、虎の出来が充分であれば、虎は虎に見えるので、「福鼠」の動きには影響がない。*6

この場合、オチがつかないので、落語というよりは昔話になってしまう。

「鼠屋は変わらずに繁盛しましたとさ。おしまい。」

一方、虎の出来が不充分であれば、猫に見える可能性が高く、恐らく本来のサゲに戻れるだろう。

長沢芦雪方式

では、猫を模して彫ったらどうか。

本当は虎ではなく猫なので「福鼠」は動かなくなるだろう。

そうすると、甚五郎が「お前、あの虎がそんなに怖いかい」と声をかけたら、「福鼠」は「はい、だってあれ、猫なんですもん」と応え、一応オチはつくのだが、面白さは半減してしまうので、もうひと捻り欲しくなる。

本来の噺に近いものとしては、「おい、ねずみ、あの目をよく見なさい。魂が込められていないじゃないか」という甚五郎の言葉で「福鼠」が安心するとか。うーん、いまいちかな。

いっそ、立場を逆転してしまうというのはどうか。

「かつて番頭と女中頭が元々恋仲だったのに、主人が横恋慕した。番頭はその復讐のために虎屋を乗っ取った」とするバージョンもあって、それだと鼠屋を悪役にすることが可能かも知れない。でも、原形をとどめないくらい別な噺になってしまうな。

あとは、甚五郎が頓智を利かせて、「福鼠」を再び動かすとか。

例えば、甚五郎が適当に削っただけのような木っ端を置いたら、「福鼠」が動き出した。名人が魂を込めて彫ったそれは、鰹節に見えたらしく、猫の視線が釘付けになったから。とか。なんか、結構いけそうな気もするけど、説明が多すぎて落語らしくなくなるね。

結局、元のままが一番いいってことかな。

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*1:

*2:ネタバレは気にしなくていいのかも知れないけど、一応最初の方だけでも。

*3:ねずみ (落語) - Wikipedia では、「飯田は金だけ取ると、弟子に虎を彫らせ、虎屋に売りつける」とされている。この場合、技術に関しては飯田の面子が保たれるが、職業倫理には疑問符が付いてしまう。

*4:伊藤若冲 - Wikipedia

*5:長沢芦雪 - Wikipedia

*6:虎だって充分に怖いはずだが、劇中では猫ではないと知った途端に「福鼠」が話し始めるので、影響がないと考える。

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