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『猫の皿』の罠は意図的か

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引き続き『猫の皿』について。*1

今回は茶店の主人について考えてみたい。

【この記事の目次】

『猫の皿』の罠は意図的か

『猫の皿』は、とある茶店で猫の餌皿として使われている皿が高級品であることに気付いた男が、言葉巧みにその皿をせしめようとするのだが・・・という噺だ。

CDの解説文に「お宝買い付け人は、口数が少なくて一見は純な茶店のおやじの敵ではなかったのだ」とあるように、一般的には、茶店の主人の方が一枚上手だったという落ちだと解釈されるかと思うが、そうでない可能性も捨てずに考え、また、それぞれの場合にどのような読み取りが可能なのかを考えてみたい。

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(1)仕組まれた罠

もしも、「猫の皿」が主人によって最初から意図されたものであったとしたら、物語はどのように読み取れるだろうか。

「猫の皿」を使う時

例えば、主人が「猫の皿」を使用するのは、カモが現れた時に限られるのではないだろうか。

「江戸へ持って行けば、黙って三百両、うまくすれば五百両、千両」という価値の品を、猫に壊されてしまうリスクを負いながら無駄に使用するとは考えにくい。

主人の目的

また、この場合の主人の目的は何だろうか。

金儲けが主な目的だとは考えにくい。少なく見積もっても三百両という品をリスクに晒しながら得られる金が三両では割に合うとは言えないのではないだろうか。

単純に百人は引っかけなければ元が取れないし、全員が罠に掛かるとは限らない可能性も考えると、主人の目的は金のためではない可能性もある。とすると、主人の目的は騙すことを楽しんでいるのか、あるいは悪徳業者を懲らしめるためか。

一方、金のためだとすると、預金の利息を得るような感覚だと考えられる。大事な品を手元に置きながら、小遣いを稼ぐには合理的な手段と言えるかも知れない。

いずれにしろ、相当な策士であると言えるだろう。

もしかしたら、今回が初めてで、「時々猫が三両で売れる」というのも嘘かも知れない・・・など、疑い出すと切りがない。

(2)少なくとも最初は

もしも、主人が(少なくとも最初は)儲けを意図したものではないとしたら、どうだろうか。

偶然、高級な皿を使って猫に餌をやり、そこに偶然、悪意を持った古物商が現れて皿に目を留めた。そういう偶然が重なって思わぬ臨時収入を得た主人は、それ以来、手ぐすねを引いてカモを待っている。

この場合、最初から意図していた場合と比べて、策士としての度合いは低くなるだろう。

付随して浮かび上がるのは悪意を持った古物商の多さだ。普通なら「株を守る」の故事 *2 のようになりかねないのに、「時々猫が三両で売れる」というくらい、カモが現れるということを意味する。

また、前述のケースと同様、日常的には「猫の皿」を使っていない可能性が高そうだ。

(3)「なぜか」三両で売れる

さらに、主人はまったく意図していないのに「なぜか」時々猫が三両で売れる・・・このケースについても考えてみたい。

つまり、なぜ古物商たちが猫を三両で買おうとするすのか、その理由を主人が理解してないという可能性だ。

この場合もきっかけは偶然であった可能性が高い。

また、古物商が発する「なんだって、そんな結構な物で猫に飯を食わせたりするんだい」という問いに対して、「それで猫に飯をやっておりますとな、時々猫が三両で売れる・・・」と主人が答えているところから、時々得られる三両を目当てに「猫の皿」を使用していることは確かだ。

相違点

ならば、前のケースと何が違うのか。

違うのは、主人が日常的に「猫の皿」を使用しているという点だ。

少なくとも、カモと思われる客の前だけでなく、どんな客の前でも「猫の皿」を使用していることになる。

また、主人が例えば「高級な皿で餌をやっていれば、ただの野良猫が高級に見える猫になっていくのかも知れない」といった解釈をしている可能性があり、その場合は、客がいなくても「猫の皿」を使用しているということになる。

メリット

上の2つのケースでは、主人が悪意を持っていることが古物商に気取られた場合、古物商が復讐を企てないとも限らず、リスクが発生することになる。

その後の主人の儲けを妨害するために、仲間内に吹聴して警告を発するかも知れない。

それに対して、こちらの解釈では、主人との駆け引きに負けたというよりは自業自得の印象が強く、古物商の怒りは主人よりも自分の至らなさに向かいやすいだろう。(逆恨みをしないとは限らないが。)

解釈上も、ずる賢い古物商がとぼけた主人に(勝手に)引っかかってしまう、独り相撲のような滑稽さが生まれるのではないだろうか。

(4)「なぜか三両で売れる」という演技

前述の通り、3つ目のケースには復讐心の抑制というメリットがあるわけだが、もしも、主人がそこまで計算してとぼけた演技をしているという可能性も捨てきれない。

その場合は、やはり「茶店のおやじの敵ではなかった」ということになる。

 まとめ

どのように解釈するかは、結局は聴き手の好みに任せられるものだろう。

騙し合いを面白いと感じるか、独り相撲を滑稽を面白いと感じるかは人それぞれだ。

我々としては、(3)か(4)かを迷いながら聴くのが楽しいのだが、読者の皆さんはいかがだろうか。

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*1:

*2:切り株にぶつかって死んだうさぎを手にいれた農夫が、その後は働くことをやめ、またうさぎを得ようと切り株を見張って暮らしたという。「韓非子」五蠹。

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